09-23 著者:admin
《また皆さんと笑って話すときが絶対来ます》
静岡県清水市(現静岡市清水区)で一家4人を殺害したとして、昭和41年8月に強盗殺人容疑などで逮捕された袴田巌(88)は逮捕から半年が過ぎたころ、母宛ての手紙にしたためた。
逮捕後、連日、長時間の取り調べを受けた巌は犯行を一度「自白」したものの否認に転じ、一貫して無罪を訴え続けた。
巌は母への手紙で勾留先にあった日めくりカレンダーに触れている。カレンダーには子供をおぶった老女が夕日を見つめる写真があったという。
《僕はそれを見て、お母さんと息子を思い出しています》。事件前に妻と別れていた巌は、母に幼い長男を預けていた。
巌は面会で姉のひで子(91)に「警察官も裁判官も人間で間違うことはある」と話すなど、元気な様子も見せた。
家族らが無罪に期待をかける中、静岡地裁は43年9月、取り調べの違法性を指摘して自白調書のほとんどを却下した一方で、現場近くで見つかった血染めの5点の衣類が巌の犯行着衣だったとして、死刑を言い渡した。
判決の2カ月後、母は亡くなった。さらに5カ月後には父も。その死を知らされなかった巌は、手紙を送り続けた。
返事がないことには違和感を覚えていたのかもしれない。44年10月には母宛てに、こんな手紙を送っている。
《今朝方、お母さんの夢を見ました。元気でした。夢のように元気でおられたらうれしいのですが》
2年後、両親の死を悟った巌は、兄に手紙で《裁判が私の両親の生命を奪った》と憤り、死に水を取れなかったことを悔やんだ。
東京高裁が51年5月に控訴を棄却すると、世間の目はますます厳しくなり、ひで子も家にこもりがちになっていった。巌のことを考えると眠れない。ウイスキーをあおり、無理やり寝る日々。アルコール依存症だった。
巌には、その前から変化が現れていた。手紙の流れるような美しい筆致が、定規で線を引いたような字に一変していた。
それは、後に訪れる大きな異変の予兆だったのかもしれない。
55年11月に最高裁が上告を棄却したことで死刑が確定した巌の寝床は、東京拘置所の死刑囚用の独房に移された。依存症から立ち直っていたひで子が上京して面会に訪ねるなり、まくし立てた。
「昨日、処刑があった。隣の部屋の人だった。『お元気で』と言っていた。みんながっかりしている」
この日を皮切りに、巌の精神はどんどん、むしばまれていった。
「電波を出す人がいる」「ばいきんと戦っている」-。面会は何度も拒絶され、面会しても意味不明なことを話した。
弟と意思疎通が図れないなか、再審請求を進めたひで子は還暦前後で、ある決断を下す。
約1億円を借金し、故郷の浜松市に4階建てマンションを建てた。1階駐車場をのぞいた全3部屋を貸し出しても完済まで20年はかかる。
自宅と定めた最上階は100平方メートル超。1人暮らしには十分すぎる大きさは、無罪を勝ち取った巌と住むのが前提だ。
ひで子の決断が実を結ぶまでは、さらに20年弱の時を待つことになる。=呼称、敬称略
袴田巌さん再審判決へ㊤